ご無沙汰です

友人にはよう更新せえやと喝を入れられたので、久々に何か書いてみようと思います(笑)

いや、僕だって毎日のように更新したいんだよ。僕は今こういう生活を送っていて、こういう体験をして、こんなことを感じたとか、こんなふうに考えたとか、少しでも多く文章に残しておきたい。この日記を楽しみにしてくれている人たちのためにも、自分のためにもね。だけど本当に書くことがないし、書くべきことが見つからない。毎日が平凡すぎるくらい平凡で、昨日と今日の区別がつかないような生活を文章にして一体何になるんだと最近ずっと考えている。

もっと突っ込んでいえば、僕の書くことは、一瞬一瞬めまぐるしく変わっていくとるに足らないありふれた「喜び」とか「悲しみ」とか(呼ばれているもの)その他諸々の感情に適当に意味付けして、無理やりそこに価値を見出そうとしているようなものでしかないような気がする。そこには、ないことをあることのように表現するような後ろめたさがある。最近流行の偽装である(特に害はないけど)。

要はもっとスマートな文章を書きたいってこと。

まあ、そんなこといっても、やっぱり何か書きたいわけで、今回は「居づらさ」について。
昔から自分には、人と一緒にいると引け目を感じてしまうような感覚がある。それも不思議なことにいっしょに居たいと強く思っている人ほどそうなる。自分みたいなヤツがここにいていいのかなあってついつい思ってしまう。ある友人は、それを「謙虚」という言葉で表現していたけど、そういうものとはちょっと違うと思うし、仮にそれが合っていたとしても不健全な「謙虚」さだと思う。
この「居づらさ」を自分なりに考えてみたけど、結局はこういうことだと思う。
ふつう友達になるやつっていうのは、いっしょにいて楽しかったり、気が合ったりするものだと思う。たしかに僕も友達にはそういうものを求めている。だけど、自分はこれにもうひとつの要素が入ってくる。それは、僕がその人に対して憧れを持てるかどうかだ。自分にはないものをもっている、人としてとてもかなわないと思える人、そういう人と友達になりたいと強く思うし、高校に入って以降それを基準に友達を作っていた(人数は少ないけど)。
もしかしたら、友達っていう感覚じゃないのかもしれない。いっしょに「居る」っていうよりも、「居させてもらっている」っていう言い方が正しいのかな。なんか窮屈な感じがするけど、自分にはそれがいいんだよね。
そういうわけでこれからもよろしくね。

HOSONO HOUSE

HOSONO HOUSE

「恋は桃色」は、てっきりサニーデイ・サービスのオリジナル曲だと思っていたけど、カバーだったんだね。これは原曲の方が圧倒的に素晴らしいと思う。サニーデイは温かみのあるアレンジにしていて、それはそれでいいんだけど、細野さん特有の低音のぶっきらぼうな歌い方がはまりすぎ。